《2022年度1学期 第1回朝礼講話》 2022.4.13(水)
校長:坂東修三
メリトクラシーの限界 ― 格差の再生産
全校生の皆さん、おはようございます。2022年度第1回目の朝礼講話です。今年度から、水曜日1限の時間を様々な目的に有効活用するために、校長講話は、月に1回、毎月第一水曜日に行うことになりました。回数は減りますが、できるだけ中身のある話をするように努力しますので、全校生の皆さんも、その旨ご理解の上、耳を傾けてください。
《メリトクラシーとは》
今日のタイトルは「メリトクラシーの限界」、副題は「格差の再生産」です。キーワードは《メリトクラシー(meritocracy)》という英単語です。内容に関しては、話の中で説明しますが、辞書的な意味は、カタカナ語になっている「長所/短所」を意味する《メリット/デメリット》の《メリット》の英単語=《merit》がベースになっています。英語の《merit》は「実力」あるいは「能力」を意味しています。従って、《メリトクラシー(meritocracy)》は「実力主義/能力主義」を意味します。
《親ガチャとヤングケアラー》
もうひとつ、昨年2021年の流行語大賞にノミネートされた単語に《親ガチャ》があります。《親ガチャ》の《ガチャ》は、コインを入れて景品をゲットする《ガチャポン》から生まれた単語で、何が当たるか分からない《ガチャポン》の特徴を踏まえて、子供がどんな親の元に生まれるのかは、運任せであり、子供の人生が、親とか家庭環境によって大きく左右されることを、意味する言葉です。
《親ガチャ》は、主に、親の経済力によって、子供の人生の進路、とりわけ受ける教育に格差が生じる事態を指して使われています。例えば、昨年の朝礼講話でも話題にした《ヤングケアラー》と呼ばれる子供たちの存在も、この《親ガチャ》と密接に関連する問題です。《ヤングケアラー》とは、本来は大人が担うべき家事や家族のケアを強いられているために、通学や進学が制限されてしまう中高生を指す言葉でした。例外なく、貧しい家庭の子供たちです。政府の調査では、平均してクラスに2人はいる状況です。《ヤングケアラー》の問題も、《親ガチャ》の問題と同様、子供本人の意志とは関係なく、生まれ育った家庭環境が裕福か貧しいかで、子供の現在や将来が決められてしまうこと、貧富の格差がそのまま教育の格差に連動していることが重要なポイントです。
そこで、本題です。
本日のキーワードの《メリトクラシー(meritocracy)》が、実際は何を説明するために使われるかに言及したいと思います。
《身分制社会とメリトクラシーのループ》
近代以前の社会は、家柄や出身階級で個人の社会的地位が機械的に決められていた身分制社会でした。しかし、近代社会では、民主主義が広まるにつれて、人はみな平等であるとの考え方が浸透してきました。その結果、人間の社会的地位は、家柄や出身階級などの生まれによって決まるのではなく、その人の《能力や実力》によって決まるべきであるとの意識が確立してきたのです。こうした考え方を《メリトクラシー(meritocracy)》と呼び、競争によって成り立つ資本主義経済とともに社会を動かす両輪の働きをしてきました。個人が競ってその能力を発揮することを目指す《メリトクラシー》と、企業などが競って利益や利潤を追求する資本主義とがコラボする形で、社会に勢いと活性化をもたらす原動力の働きをしてきたのです。そして、個人の能力や実力は、その人がどういう教育を受けたのかを中心に評価され、具体的には学力や学歴を基準にして評価されてきたのです。こうして教育が社会参加の必須条件になったのです。

例えば、教育に関する権利を定めた《憲法26条》や、教育の憲法とも呼ばれる《教育基本法》が、どちらも揃って、「すべての子どもに、教育の機会を与えなければならない」と謳っているのは、こうした《メリトクラシー》の考え方を反映しているからなのです。
ただ、《メリトクラシー》という制度は、社会に階層的流動性をもたらす目的から《競争原理》で動いています。それは、両輪のもうひとつである資本主義経済と同じです。つまり、競争の結果、《勝者-敗者》の優勝劣敗の二極分解を起こすシステムなのです。二極分解とは言うものの、その中身は《少数の勝ち組-多くの負け組》という構図になり、資本主義が今日のように成熟期に入ると、《勝ち組-負け組》という構図が固定化し、もっと悪いことに、教育を通じて《勝ち組-負け組》の、世代を通じた再生産が繰り返されることになるのです。
ピエール・ブルデューというフランスの社会学者は、親の豊かな経済力を意味する《経済資本》と並んで、裕福な親が持つ教養や教育への熱意・意欲を《文化資本》と呼んで、《経済力》と《文化力》がコラボして優秀な学力の子供が育ち、その子供が次の勝ち組となって富裕階層が再生産される仕組みを明らかにしました。《メリトクラシー》という考えに基づいて、誰もが社会参加するための《登竜門》であるはずの教育が、格差を増幅する元凶になっていると指摘するのです。

現在日本には国公立と私立を合わせて788の4年制大学が存在しますが、このうち、保護者の年間収入がもっとも高い大学は、どこだと思いますか。それは東京大学です。もちろん、卒業まで最低で3,000万円はかかると言われる私立の医学部は例外です。東大の保護者が最も裕福であるということは、ブルデューが指摘している、《勝ち組》が世代を通じて再生産されている事実が日本にも起きていることがわかります。当然、東大に入学するためには、中学高校を通じて私立や塾に通わなければ合格するのは困難ですから、結局のところ、保護者がそうした教育費を負担できる経済力を持っていることが求められます。もちろん、合格するためには、一番必要になるのは学力ですが、ブルデューによれば、学力も勉強の意欲も、それが顕在化して開花するかどうかは、家庭環境次第ですから、この場合も、親の経済力と、子供が受ける教育のレベルには大きな相関性があることになります。
近代教育の理念は、すべての子供に、平等に教育の機会を与えなければならないという《教育の機会均等》を謳っています。この点に関しては、《メリトクラシー》も同じです。つまり、理念の上では、どの子供も教育のスタートラインに着くことができるはずなのですが、資本主義の競争がますます激化し、貧富の格差が拡大するにつれて、《ヤングケアラー》の子供たちのように、スタートラインに立つことさえできない人々が生まれているのです。その結果、潜在的な能力を開花するチャンスすら与えられないまま社会参加することを強いられているのです。《親ガチャ》という言葉には、こうした社会的弱者と呼ばれる人々の怨嗟や悲痛な思いが込められているのではないでしょうか。
《変化するメリトクラシー》
残念ながら、日本では明治以来、今日に至るまで長期にわたって、《メリトクラシー》の《能力》の意味が、《知識を理解する力/吸収する力》の意味に限定されてきました。狭い意味での《学力》を指しているのです。俗っぽく言えば、「お勉強ができる」という言葉に含まれている意味と同じです。ところが、実社会で求められる《能力》はもっと多様性や変化に富んでいます。単なる知識の理解力や吸収力だけでは太刀打ちできません。自分の頭で考え、それを自分なりの言葉で明確に伝えることのできる発信力や表現力、いわゆるコミュニケーション能力です、また、他人の心を推し量り、汲み取ることのできるエンパシー力、チームを統率できるリーダーシップ、なによりも信頼関係を築くことができる人柄、一言で言えば、人間力が求められるのです。従来の学力はこうした人間力と結びついて初めて有効な力になりうるのです。
こうした当たり前と言えば当たり前の総合的な力が、社会で生きていく上でもっとも重要な力であることに日本社会が気付かされたきっかけは、やはりグローバル化によって、異文化交流が始まったことです。従来のように、「進んだ」欧米の文化を吸収して、それを国内に広める力があればそれで事足りるというわけにはいかなくなったのです。欧米の学識や技術を日本にインプットするだけの力だけではなく、自分たちのものをアウトプットできる力が必要になったのです。とりわけ、こうしたことを教育の分野で教示してくれたのが、OECDが2,000年から3年おきに始めた、先進国の16歳の生徒を対象に行っている《PISA》と呼ばれる「学習到達度試験」の結果です。数学・理科は先進国の中で上位を占めたにも関わらず、記述力や表現力が大きく劣っていて、日本人のアウトプット能力の不足を根拠のあるデータで突き付けられたことでした。「PISAショック」と呼ばれ、日本社会に大きな波紋を投じました。日本人の学力観を根本から変えるきっかけになったのです。
これ以来、教育の分野も含めて、日本社会がようやく《メリトクラシー》の改善に舵を切るようになったのです。たんにお勉強だけができる人材ではなく、人間力のある骨太の人材を求め始めたのです。とりわけ、国本女子に関連性のある大学入試においても、従来の学力一辺倒の選抜方式から、課外活動歴や総合学習での活動内容などの人間力を学力とセットにして判定基準に組み入れる《総合型選抜方式》や《推薦方式》を採り入れるようになりました。学力重視の権化と言われてきた東京大学も、6年前の2016年度から《推薦入学》を導入するようになりました。
国本女子の皆さんには、《メリトクラシー》の原点回帰の流れも意識しながら、在校中に、教科的な学力を吸収するだけで満足することなく、もっと骨太の各自の《能力/実力》、つまり《得意分野》を磨き上げてほしいのです。《部活動》《生徒会活動》《実行委員会活動》《委員会活動》などが《得意分野》の例になります。焦る必要はありません、広い視野に立って、将来、自分がどんな生き方をしたいのかを、先ずは考えて頂きたいのです。そして、それに伴ってどんな《能力》が必要になるのか、自ら人生設計を描いてみてください。皆さんの前向きな姿勢を期待しています。以上で朝礼講話を終わります。 (以上)