(式辞)
全校生の皆さん、おはようございます。3学期の修了式にあたり式辞を述べたいと思います。
コロナの感染規模が最も大きかった第6波の勢いも、ようやく衰えの兆しを見せ、2ヶ月半に及んだまん延防止重点措置も昨日で解除されました。今日まで、2年以上もの間、私たちの行動をグレーゾーンに閉じ込めてきた《ダブルバインド》の縛りも、桜の開花を報じるニュースに合わせるかのように、ようやく解かれようとしています。全校生の皆さん、2021年度の一年間、本当にお疲れ様でした。今年度もコロナに翻弄された一年でしたが、なんとか大過なく終えることができました。皆さんの忍耐にエールを送りたいと思います。今日は、コロナの《ダブルバインド》ではなく、私たちのコミュニケーションを縛る《ダブルバインド》についてお話ししようと思います。
日本の企業が、社員を採用する際に、最も重視する能力は、9年連続、《コミュニケーション能力》が一位だそうです。大企業の90パーセントが《コミュニケーション能力》を第一位に挙げています。二位以下に20ポイント以上もの大差をつけてのダントツのトップです。これは、大企業のすべてが加盟している経団連という組織の調査結果です。意外なのは、《語学力》が、以前と違って、最近は6パーセント前後にとどまっていることです。語学力は、出来て当たり前と思われているか、あるいは、企業に入ってからでも、会社の仕事の中でいくらでも身につけることができると企業側が考えているようです。
そこで、企業側が考える《コミュニケーション能力》とは、具体的にはどんな力を意味しているのかを調べたところ、大半の企業が、「自分の考えをきちんと相手に伝えることができる能力」「自分の意見を誰に対してもはっきりということができる能力」と説明しています。
これに対して、劇作家で大阪大学の教授をしている平田オリザさんは、最近の著書の中で、
「日本の企業は公然と明言はしていないものの、無意識のうちに、《ダブルバインド》を行っている」と指摘しています。
平田先生のコメントは、少し補足が必要かもしれません。
《ダブルバインド》は、以前の講話の中でもテーマに取り上げたことがありますし、中学生の皆さんは、先日土曜日に行われた、中学校の卒業式の式辞でも触れましたから、若干、《耳タコ》状態かもしれませんが、簡単に確認しておきます。
《ダブルバインド》は、この言葉を考案した精神科医のベイトソンによれば、両立困難な、矛盾した命令を同時に出されて、心が引き裂かれた状態になることを意味します。卑近な例を挙げれば、皆さんは、「よく学び、よく遊べ」という格言を知っていると思います。「よく学び」、つまり一生懸命勉強しなさい、「よく遊べ」、つまり思う存分、たっぷり遊びなさい、この2つの要求を両立させることは難しいとは思いませんか。一生懸命に勉強したら、遊ぶ暇はなくなるし、思う存分遊べば、勉強する暇も気力もなくなるからです。
コロナ禍での《ダブルバインド》も、これに似ています。《(感染予防のために)行動を控えなさい》に対して、《(生活のために)社会活動を続けなさい》という両立が困難な要求に、私たちが引き裂かれてしまうのです。両立困難に思えるのは、どちらも生きるためには、必要不可欠なことだからです。ベイトソンによれば、《ダブルバインド》状態に長く置かれと、どっちつかずの宙ぶらりんな状態が続くために、自分が自分でなくなるような不安的な気持ちが続き、人によっては精神的な変調をきたすこともあるというのです。実際、国立成育医療センターの調査では、コロナ禍の二年間で、うつ症状などの心の変調を訴える中高生が、大幅に増えたことがわかっています。
話を式辞のテーマに戻します。
日本の企業で起きている《ダブルバインド》の特徴は、表面的には、「コミュニケーション能力」の重要性を社員に訴えて、自分の意見や考えをはっきり表明できる人間になるように要求しておきながら、その一方では、もうひとつの真逆の能力を暗に求めている点です。その真逆の能力とは、具体的には、「上司や先輩の意図を察して機敏に行動する」「会議の場では、空気を読んで自分の意見は言わない」「チームの和を乱さないために、なるべく反対意見は言わないようにする」といった、まさしく日本社会における従来型のコミュニケーション能力を意味しています。どれもこれも、言葉を必要としないコミュニケーションです。《空気を読む》《忖度(そんたく)》《以心伝心》《阿吽の呼吸》など、ムラ社会的コミュニケーションが、まだまだ幅を利かせているのです。
最近の日本企業の若い社員は、あきらかにこのような矛盾した二つの能力を同時に要求されています。しかも、なにより始末に悪いのは、こうした要求を出している上司や先輩社員が、その矛盾に気が付いていないことです。まさしく《ダブルバインド》の典型的な例と言えます。或る意味では、手の込んだパワハラの一種とさえ言えるかもしれません。
こうしたコミュニケーションにおけるダブルバインドは、実は、学校や家庭の中でも起きていることです。家庭の中でのダブルバインドの例として、ときおり耳にする話は、父親が普段は、「まぁ勉強なんてできなくっても、身体だけ丈夫ならいいんだから」と言っておきながら、学期末の通信簿を持って行くと、「何だ、この成績は!」と突然、険しい表情に変わって怒り出すというエピソードです。親の側のこうした身勝手な対応は、それほど珍しいものではないと思います。ある芥川賞作家は、家庭の中でこうした類いのダブルバインド的コミュニケーションが頻繁に行われていたために、16歳から20歳まで引きこもりになり、家から一歩も出られない状態が続いたと、のちに告白しています。
残念ながら、コロナ禍の《ダブルバインド》と同様、コミュニケーションの《ダブルバインド》も、そこから抜け出すことは出来ません。私たちは、一方で、同調圧力の強い日本的集団の中で、空気を読む力を身につけながら、他方で、グローバル化の中で求められる《発信力》も磨かなければなりません。確かに、両立困難な要求に見えますが、双方の特徴を上手に活用すれば、《相乗効果》というプラスの結果を生み出すこともできるのではないでしょうか。空気を読んだり、忖度したりする力は、他人の気持ちを思い遣り、寄り添うエンパシーの力に有効活用することができますし、自分の考えを伝えることができる発信力を磨いておけば、同調圧力に圧し潰されて自分を失うこともなくなります。大事なことは、二つのスキルを少しでも自分のプラスになるように、ひとりひとりが自分の性格も考慮に入れながら創意工夫して身につけて行くことです。日々の学校生活は、そうしたスキルを獲得する上でもっとも相応しい場です。2022年度は、二つの社会的スキルを焦らず試行錯誤しながら習得する一年にしてください。試行錯誤する中で、生きる上での原動力となるレジリエンスやエンパワメントも併せて鍛えられるはずです。国本女子の皆さんが、次年度も引き続き成長の階段を一段一段昇っていくことを期待します。
なお、《まん延防止重点措置》は昨日で解除されましたが、感染状況は首都圏を中心として、依然として高止まり傾向が続いています。東京都では、4月24までの期間を《リバウンド警戒期間》と定めて、引き続き感染対策を怠らないように注意喚起しています。国本女子中学校高等学校も、当分の間、従前の感染対策を続ける予定です。皆さんも、警戒を緩めることなく、引き続き感染予防に努めてください。以上で式辞とします。 (以上)